北広島市 タカシマファーム

タカシマファームのあるところ ― 北広島市について

 タカシマファームは北海道石狩平野の一端、北広島市にあります。
 南を望めば、はるか太平洋に連なる地平線、北を望めば石狩平野の地平線、その彼方に暑寒別の峰々、西には遠くに手稲の山々、それに連なる恵庭岳、樽前山、東には近くに馬追の丘陵と、遠くに夕張山系が浮かびます。
 太平洋側、日本海側が見渡せる場所にあるだけに、常に風が吹き、夏には南からの湿ったガス雲(東北地方太平洋岸に吹くやませの一種)に覆われることが多いです。
 米作りには決して恵まれた気候とはいえませんが、逆に病害虫の発生が抑えられるという利点もあります。
 当農場のすぐ横をサケ捕獲用のインディアン水車や放水路建設問題で有名になった千歳川が流れており、近くに旧夕張川、輪厚川、島松川の3支流の合流点があったため、太古の昔より氾濫を繰り返し、地力のある豊富なミネラル分を含んだ沖積地を形成したところでもあります。

お米の食味の良さの秘密のひとつは、そこにあります。


(有)タカシマファーム 会社案内

設立 2002年
資本金 300万円
取締役 髙嶋 良平
従業員 4名
事業内容 オリジナルブランンド「田園交響楽」米の生産、販売。野菜の生産、販売。
農産物直売所(ふらり)の運営
会社運営理念 タカシマファームは家族が楽しく、訪れる人が楽しく
そして自らが楽しむ交響”楽”の農場として、お米「田園交響楽」を通じて
美味しく健やかに食べることの喜びを提供します
そしてその価値を生み出す田畑は後代からの預かりものとして大切にします

これまでのあゆみ

北海道入植・開墾期

 明治30年、(1897)現福井県美山群大野町より長沼町(北広島市の隣)13区に入植 。初代伊平(年齢不詳)、二代 藤太郎(24歳)、三代 伊澤(2歳)らが開墾しながら畑を耕作。当時まだ水田はほとんどなかったらしい。
 藤太郎の代に家督を弟に譲り、伊澤とともに14区あたりで小作をしながら新しく土地を求める。

 次第に土地を増やしながら西長沼付近の土地を多数の使用人(当時は奉公人と呼んでいた)とともに開拓。
 明治、大正と時は移り、昭和12年現在の住居のある北広島千歳川沿いの地に新たな開拓の場を設ける。
 このときはまだ長沼の地でも耕作しており、田畑作りと開拓の同時進行であったらしい。
 北広島の地は一度開墾のあと捨て地となっており、当時はうっそうたる大葦原で、四代藤一郎(当時8歳)の記憶では馬の背に乗っても前が見えないほどだったという。
 戦争が激しくなり、徴兵による労働不足と食糧難が深刻さを増す中で、当時の東洋高圧(肥料会社)が社員の食糧確保のため土地を求めるのにあわせ譲渡し、4町ほどの田が残った。長沼にあった田畑がその後どうなったのかは定かではない。

戦後食糧増産と災害苦難期

 戦後は4町ほどの田を四代藤一郎が耕作するようになり周りは10数軒にも上る引揚者(満州、樺太など)達などの入植が進み、一気に水田が拡大された。あわせて、千歳川の水害防止のため築堤、河川改修工事が始まったが、北広島市拓北、共栄地区は水系でも最後の地となったため、大雨のたびに遊水池と化し、昭和30年代から40年代にかけて被災の連続であった。
 また数年に一度の冷害も加わって、飯米の確保にも困る年もあったようである。

 つけ加えるに、現経営主の生まれた昭和29年は収穫直前、洞爺丸台風襲来によって全 国的に甚大な損害を被った年でもありました。
こうして幾多の試練はあったものの、絶対的な食料不足で農家にはまだ思いっきり米 が作られるという希望があった。 昭和35年 藤一郎の弟、冨士男が分家し隣地に2町歩を求め独立。 この頃打ち続く冷水害によって離農が相次ぎ、20戸近くあった農家が6~7戸に激減、 徐々に規模拡大も進んだ。

経済高度成長、転作、機械化期

 昭和40年代以降、日本経済復興と歩調をあわせて化学肥料、農薬万能、機械化に代表される科学的な農業の時代の幕開けとなる。
 当時のタカシマファームの作付面積も9haほどになるが、皮肉にも昭和46年より減反 がはじまり、転作強化の波に洗われることとなった。
 北広島はこの頃より大都市札幌の膨張に合わせ宅地開発などが活発になって市街地近くの農地が減少すると同時に、農家の中にも生産意欲の減退が見られ、転作が加速的に増加する。
そうした状況下であったが、タカシマファームでは極力米を作り続ける道を選択する。

 昭和52年 五代浩一、大学を卒業して農業の道を歩むため後継者となった。

経営危機と食管法の形骸化

 昭和53年から55年にかけて土地生産性、作業効率の向上のため拓北、共栄、北の里地区で基盤整備事業を行い、それにあわせて当ファームでも離農者より土地購入、水稲経 営面積13haとなった。

 昭和54年より経営の主導は浩一にまかされていたが、基盤整備工事費と土地購入の全額を借金でまかなったため、55年から58年まで続いた冷水害により経営危機に落ち入る。
 この時、町(当時)の支援で再建整備農家に指定され、借入金利々下げ、支払い期間繰延べ対策を受ける。

 全国的には転作が定着し米のブランド化と消費者のおいしさ志向、米離れが進み、自 主流直米制度拡充の中で、北海道米の衰退が顕著になってくる。
 良食味品種としてキタヒカリ、ゆきひかりが登場するが焼け石に水。

米価下落、特別栽培米、バブル期

 昭和59年から60年代に入ると、良い作柄にも救われて、徐々に経営が回復してくるが、世は国際化とバブルへひた走り、米価の据置き引下げの時代となって生産額の停滞にともない、じっとガマンの時がつづく。

 消費者の志向は多様化し、おいしさと同時に安全、安心を求めた動きを強めつつあっ た時、特別栽培米制度が発足。平成元年より他の農家有志とともにきらら397を「ひろっこ大志」のブランド名で地 元消費者に直売を始める。

 これより米や他の作物の無農薬、低農薬栽培を手がけるようになって、その技術・販売のノウハウを蓄積してゆくことになる。

バブル崩壊、ハードからソフトへ、新食糧法の時代

 バブル崩壊にともない、人々のライフスタイル、価値観が変わり、さらに多様化し、生産現場と消費者との距離が一方で遠くなり、一方で近くなってきた時代。
 米へのこだわり、農に向きあう姿勢を外に向かって伝えたい・・・ それを具現化するための手段として平成8(1996)年、当ファームプライベートブランド「田園交響楽」を作り、商標登録する。

 食管法廃止・新食糧法制定の中で購入者の多様なニーズに対応するため、アイガモ農法なども取り入れ4品種8アイテムの生産、直売を行なう。

 こうしてタカシマファームは1897年の入植からちょうど100年目の1996年、田園交響楽の誕生をもって自主自立の経営に向けて一歩踏み出し、21世紀への入り口に立つこととなった。

「田園交響楽」による差別化の進展と法人設立、農地取得による規模拡大期

 まずはお米の名前、「田園交響楽」を知ってもらうためにお祭り、イベント等に積極的に出店する。1997年1月中小企業家同友会入会をもって同業、異業を問わず多くの方々と交流、ネットワークを拡げるとともに徐々に浸透を図る。

 2000年自作地の一部が開発局に防災ステーション建設で収用されたのを機会に、隣の長沼町に田を求め水田耕作が13haから20haになった。
 和、洋、中、中食、外食など食の多様化と高齢化、少子化で米の需要が減り続けるなかで、業務用米の引き合いも増えて販売の基盤が確立されるに伴い、経営の分離と対外的な信用力を高めるため2002年法人化に踏み切る。

 さらに1999,2月同友会札幌支部において農業経営部会が設立され、それに参画することにより全道の先駆的農家との交流が一層深まることとなり、農商工連携、6次産業化の息吹にいち早く接することとなった。

 この頃に20ha全ての田において殺虫殺菌剤(あいがも農法田は除草剤も使用しない)を使わないこだわりの農法にて米作りをする態勢が整う。
 また各地で規模の大小を問わず農産物直売所がオープンし、地産地消運動とも相まって農家の意識にも変化が見られるようになり、身土不二、スローフード運動、フードマイレージなど食と健康、文化、環境などへの関心が一般市民にも高まってきた。

農産物直売所の乱立、淘汰と後継者、良平の就農で新たなタカシマファームを

 グリーンツーリズム法施行というタイミングに合わせ2007年10月、生産量の増えた米を販売する拠点としての位置づけと将来はファームレストランもという思惑で、直売所「風楽里(ふらり)」を建てオープン。
 しかし米、野菜のほか農業経営部会のネットワークで他の農家の産物も扱うが"販売"の難しさを改めて味わうことになる。

 また5代目浩一2010年1月より土地改良区役員、農業委員など農業関連組織の役職に就き、育てられた地域に逆に貢献しなければならない立場となるが、2010年6月突然の脳梗塞で倒れ入院、幸い症状の回復が早く半月で退院する。

 この間、大学4年に在学中の長男良平がその穴を埋めるべく農作業、精米、配達などの業務をこなすが卒業を前にして後継者としての自覚と存在感は揺るぎないものとなる。

 直売所ふらりは運営方法の紆余曲折を経て4年目頃より自家産物に特化する形にシフトし、2012年以降は自家産米使用おにぎりの製造委託販売も手がける。
 直売所も無人の所から数軒共同のものまで一時は乱立状態にあったが、大型の「道の駅」タイプが整備されるにしたがい2010年代は淘汰の時代に入る。

 社会は高齢化が進み米の需要も食の多様化と相まって減少傾向が続くが、その結果、米価は農家手取りで玄米12,000~13,000円/60kgと採算割れ状態が続く。
 当ファームではアイガモ農法など付加価値を高めた米の生産、販売と都市田園協働ファーム(浩一も取締役で参画)との連携で大手デパート、スーパーなどにも少量ながら販売し価格を維持すると同時に多元化も図る。

 2011年3月、6代目良平、大学を卒業と同時に新規学卒者として就農し当地北広島では超貴重な後継者の一人となった。