タカシマファーム
タカシマファームは北海道札幌市のお隣、北広島市にある小さな米農家です。
髙嶋家は1897年から代々100年以上続く米農家です。
田んぼの奥にはHOKKAIDO BALLPARK F VILLAGE(北海道ボールパークFビレッジ)が見えます。
タカシマファームは殺虫殺菌剤を使用しない栽培方法にこだわり、安心・安全な米作り、環境に配慮したSDGsの取り組みに力を入れています。
タカシマファームについて
有限会社タカシマファーム
設立 2002年(米作り5代目髙嶋浩一設立)
タカシマファームはこんな農場です
半世紀ぶりに、ホタルが帰ってきた
1996年より環境に配慮し農薬を極限まで減らすことにこだわり続けた結果、夏になるとタカシマファームの田んぼにはホタルが現れます。
ホタルは水がきれいでエサとなる虫がたくさんいる限られた場所にしか生息しません。
タカシマファームの田んぼは殺虫殺菌剤を使用していないので 多種多様の生物が生息しています。
北海道米の祖先「赤毛米」を育てる
「ゆめぴりか」「ななつぼし」の祖先にあたり、現在ではとても貴重なお米「赤毛米」を栽培しています。
赤毛米は中山久蔵翁が北広島の地に入植し寒地稲作に初めて成功したお米です。
現在赤毛米を栽培しているのはタカシマファームと市内の農家1件だけで、その中でもタカシマファームが栽培した赤毛米は市内事業者によって加工され、多くの特産品が生まれ販売されております。
また、現在赤毛米を使用したお酒や焼酎づくりが進行しています。2022年に赤毛米が北海道遺産に登録されました。
私たちが大切にしていること
今ある自然環境を守り続ける
タカシマファームではSDGsへの取り組みを行っており、持続可能な農業「サスティナブル アグリカルチャー」を実現するため、殺虫殺菌剤を使用せず、人体に無害な有機資材を使用するなど、極限まで農薬の使用を減らし、多種多様の生き物が共存できる環境を守り続けています。
また、自然由来の環境に負荷の少ない肥料を使用したり、自家製堆肥、自家産の米ぬかやもみ殻などを田畑に使用することで資源を循環させて土壌を守る、循環型農業に取り組んでいます。
そして今ある田畑を大切に守り、後世へ受け継ぎます。
関わる全ての人へ感謝する
お客様はもちもんのこと、農業を行う上で関わる全ての人、そして家族への感謝を忘れず、タカシマファームを訪れる全ての皆様の笑顔を大切にします。
タカシマファームのあゆみ
明治30年、(1897)現福井県美山市大野町より長沼町(北広島市の隣)13区に入植 。
初代伊平(年齢不詳)、2代 藤太郎(24歳)、3代 伊澤(2歳)らが開墾しながら畑を耕作。
当時まだ水田はほとんどなかったらしい。
藤太郎の代に家督を弟に譲り、伊澤とともに14区あたりで小作をしながら新しく土地を求める。
次第に土地を増やしながら西長沼付近の土地を多数の使用人(当時は奉公人と呼んでいた)とともに開拓。
明治、大正と時は移り、昭和12年現在の住居のある北広島千歳川沿いの地に新たな開拓の場を設ける。
このときはまだ長沼の地でも耕作しており、田畑作りと開拓の同時進行であったらしい。
北広島の地は一度開墾のあと捨て地となっており、当時はうっそうたる大葦原で、4代藤一郎(当時8歳)の記憶では馬の背に乗っても前が見えないほどだったという。
戦争が激しくなり、徴兵による労働不足と食糧難が深刻さを増す中で、当時の東洋高圧(肥料会社)が社員の食糧確保のため土地を求めるのにあわせ譲渡し、4町ほどの田が残った。長沼にあった田畑がその後どうなったのかは定かではない。
戦後は4町ほどの田を4代藤一郎が耕作するようになり周りは10数軒にも上る引揚者(満州、樺太など)達などの入植が進み、一気に水田が拡大された。あわせて、千歳川の水害防止のため築堤、河川改修工事が始まったが、北広島市拓北、共栄地区は水系でも最後の地となったため、大雨のたびに遊水池と化し、昭和30年代から40年代にかけて被災の連続であった。
また数年に一度の冷害も加わって、飯米の確保にも困る年もあったようである。
つけ加えるに、前経営主の生まれた昭和29年は収穫直前、洞爺丸台風襲来によって全国的に甚大な損害を被った年でもありました。
こうして幾多の試練はあったものの、絶対的な食料不足で農家にはまだ思いっきり米が作られるという希望があった。 昭和34年 藤一郎の弟、冨士男が分家し隣地に2町歩を求め独立。 この頃打ち続く冷水害によって離農が相次ぎ、20戸近くあった農家が6~7戸に激減、 徐々に規模拡大も進んだ。
昭和40年代以降、日本経済復興と歩調をあわせて化学肥料、農薬万能、機械化に代表される科学的な農業の時代の幕開けとなる。
当時のタカシマファームの作付面積も9haほどになるが、皮肉にも昭和46年より減反 がはじまり、転作強化の波に洗われることとなった。
北広島はこの頃より大都市札幌の膨張に合わせ宅地開発などが活発になって市街地近くの農地が減少すると同時に、農家の中にも生産意欲の減退が見られ、転作が加速的に増加する。
そうした状況下であったが、タカシマファームでは極力米を作り続ける道を選択する。
昭和52年 5代浩一、大学を卒業して農業の道を歩むため後継者となった。
昭和53年から55年にかけて土地生産性、作業効率の向上のため拓北、共栄、北の里地区で基盤整備事業を行い、それにあわせて当ファームでも離農者より土地購入、水稲経 営面積13haとなった。
昭和54年より経営の主導は浩一にまかされていたが、基盤整備工事費と土地購入の全額を借金でまかなったため、55年から58年まで続いた冷水害により経営危機に落ち入る。
この時、町(当時)の支援で再建整備農家に指定され、借入金利々下げ、支払い期間繰延べ対策を受ける。
全国的には転作が定着し米のブランド化と消費者のおいしさ志向、米離れが進み、自主流直米制度拡充の中で、北海道米の衰退が顕著になってくる。
良食味品種としてキタヒカリ、ゆきひかりが登場するが焼け石に水。
昭和59年から60年代に入ると、良い作柄にも救われて、徐々に経営が回復してくるが、世は国際化とバブルへひた走り、米価の据置き引下げの時代となって生産額の停滞にともない、じっとガマンの時がつづく。
消費者の志向は多様化し、おいしさと同時に安全、安心を求めた動きを強めつつあっ た時、特別栽培米制度が発足。平成元年より他の農家有志とともにきらら397を「ひろっこ大志」のブランド名で地 元消費者に直売を始める。
これより米や他の作物の無農薬、低農薬栽培を手がけるようになって、その技術・販売のノウハウを蓄積してゆくことになる。
バブル崩壊にともない、人々のライフスタイル、価値観が変わり、さらに多様化し、生産現場と消費者との距離が一方で遠くなり、一方で近くなってきた時代。
米へのこだわり、農に向きあう姿勢を外に向かって伝えたい・・・ それを具現化するための手段として平成8(1996)年、当ファームプライベートブランド「田園交響楽」を作り、商標登録する。
食管法廃止・新食糧法制定の中で購入者の多様なニーズに対応するため、アイガモ農法なども取り入れ4品種8アイテムの生産、直売を行なう。
こうしてタカシマファームは1897年の入植からちょうど100年目の1996年、田園交響楽の誕生をもって自主自立の経営に向けて一歩踏み出し、21世紀への入り口に立つこととなった。
まずはお米の名前、「田園交響楽」を知ってもらうためにお祭り、イベント等に積極的に出店する。1997年1月中小企業家同友会入会をもって同業、異業を問わず多くの方々と交流、ネットワークを拡げるとともに徐々に浸透を図る。
2000年自作地の一部が開発局に防災ステーション建設で収用されたのを機会に、隣の長沼町に田を求め水田耕作が13haから20haになった。
和、洋、中、中食、外食など食の多様化と高齢化、少子化で米の需要が減り続けるなかで、業務用米の引き合いも増えて販売の基盤が確立されるに伴い、経営の分離と対外的な信用力を高めるため2002年法人化に踏み切る。
さらに1999,2月同友会札幌支部において農業経営部会が設立され、それに参画することにより全道の先駆的農家との交流が一層深まることとなり、農商工連携、6次産業化の息吹にいち早く接することとなった。
この頃に20ha全ての田において殺虫殺菌剤(あいがも農法田は除草剤も使用しない)を使わないこだわりの農法にて米作りをする態勢が整う。
また各地で規模の大小を問わず農産物直売所がオープンし、地産地消運動とも相まって農家の意識にも変化が見られるようになり、身土不二、スローフード運動、フードマイレージなど食と健康、文化、環境などへの関心が一般市民にも高まってきた。
グリーンツーリズム法施行というタイミングに合わせ2007年10月、生産量の増えた米を販売する拠点としての位置づけと将来はファームレストランもという思惑で、直売所「風楽里(ふらり)」を建てオープン。
しかし米、野菜のほか農業経営部会のネットワークで他の農家の産物も扱うが”販売”の難しさを改めて味わうことになる。
また5代目浩一2010年1月より土地改良区役員、農業委員など農業関連組織の役職に就き、育てられた地域に逆に貢献しなければならない立場となるが、2010年6月突然の脳梗塞で倒れ入院、幸い症状の回復が早く半月で退院する。
この間、大学4年に在学中の長男良平がその穴を埋めるべく農作業、精米、配達などの業務をこなすが卒業を前にして後継者としての自覚と存在感は揺るぎないものとなる。
直売所ふらりは運営方法の紆余曲折を経て4年目頃より自家産物に特化する形にシフトし、2012年以降は自家産米使用おにぎりの製造委託販売も手がける。
直売所も無人の所から数軒共同のものまで一時は乱立状態にあったが、大型の「道の駅」タイプが整備されるにしたがい2010年代は淘汰の時代に入る。
社会は高齢化が進み米の需要も食の多様化と相まって減少傾向が続くが、その結果、米価は農家手取りで玄米12,000~13,000円/60kgと採算割れ状態が続く。
当ファームではアイガモ農法など付加価値を高めた米の生産、販売と都市田園協働ファーム(浩一も取締役で参画)との連携で大手デパート、スーパーなどにも少量ながら販売し価格を維持すると同時に多元化も図る。
2011年春、前年夏の浩一脳梗塞発症を受け6代目良平農業系の大学卒業と同時に就農し、いきなり水田に係る農作業の全般を担当。この時農場の基本的あり方を共有する理念(農場理念)『タカシマファームは家族が楽しく、訪れる人々が楽しく、そして自らが楽しむ農場としてお米「田園交響楽」を通じて、おいしく健やかに食べることの喜びを提供いたします。そしてその価値を生み出す田畑は後代からの預かりものとして大切にします。』 を策定。
またこの年千歳川築堤強化工事に伴い作業場が手狭になったため春より新しくライスセンター、精米所の建設に着手、多少の不備はあったものの当年の稲刈りになんとか間に合う。
2013年は当ファームにとってその後のターニングポイントとなる節目の年となる。
① 1996年(平成8年)より16期にわたり行ってきた(2011,2012年はイモチ病対策で中止)アイガモ農法から2013年度を最後に撤退
② アイガモ農法撤退と相前後して都市田園協同ファーム事業縮小に合わせ東京の百貨店からも米販売を撤退
③ 商工会からの依頼で明治米「赤毛」の作付けを始め、日本酒「久蔵翁」誕生のきっかけとなる。
2016年夏にはホタルが実に半世紀ぶりに田に戻ってきて、30年ほど前から減農薬にこだわり続けたことが報われた言いしれぬ喜びと感動を覚える。 タカシマファームの安心・安全な米作り、環境へ配慮した農業の象徴となっている。 また始めたばかりのJGAPの取り組みとも相まって当農場のクリーンさを自然な形で証明することができた。※2022年2月をもって認証取得を一時停止。これまで通り、GAPにもとづいた農場運営はそのまま継続していきますのでご安心ください。
※JGAPとはJapan Good Agricultural Practicesの略。
「日本の良い農業のやり方」という意味で日本では2005年頃から農業版HACCPとして取り組みが始まる。
2018年3月1日、農業分野のAI化でより高度にIoT,SNS等を使いこなさなくてはならない時代へ対応すべく経営移譲がなされ6代目良平が新社長となる。
また同年、当農場から2kmほどの所に日本ハムドーム球場建設が決まり、JRの駅も併設されることからグリーンツーリズム、農泊の観点からの事業展開の大きな可能性が広がり2010年代終わりごろは市、その他のふるさと納税や農商工連携による地域特産物の開発などと併せて地域興しの重要なパートを担うことになる。
全国的に農業技術が高度化し進化し続ける一方で高齢化には歯止めがかかっておらず、離農者が増える一方で新規就農者の割合はごくわずかである。北広島も例外ではなく年々高齢化が進み、農家一戸当たりの経営面積が増え続けている。 大規模化が進めば無人トラクターや無人ドローン、タブレット端末を利用した農場管理は必須になってくるが、作物にじかに触れる機会が減り作物に対しての「愛情」がなくってしまうのではと危惧する。
タカシマファームでは、子どもを育てるように作物をいたわり、そのゆりかごである自然を大切に次の世代そのまた次の世代に引き継いでいける農場経営を目指していく。
同年、弊社社長の良平が北海道農業士の認定を受け、地域の農業の発展や新規就農者の育成に関わる立場となった。