コメッセージ No.102
まだ10月というのに外は一面の雪景色....あわてて高校通学の子供達を北広島駅へ送るのに車のタイヤ交換をする。実にこの30年近く車に乗っているが、これだけ早く(10月27日)にタイヤ交換をしたのは初めてのことで、まだ寒さに体が慣れていないせいか余計に足下から寒さが体中にしみこんでくる。鼻水を垂らしてみっともないかぎりだが、どうにか車1台の交換を終え時間までに子供達を送ることができ、親の役目?を果たしてホッとする....。
それにしても今の子供らは恵まれている...というより恵まれすぎだね。
私も高校通学は夏はやはり北広島駅から列車(当時、千歳線は単線で電化もされておらずジーゼルカーかSLであった)だったけれども、駅までは自転車で行っていた。
記憶では家には確か小さな軽乗用車があったはずだが一度も父に送ってもらったことはなかったように思う。
駅までは3km弱ぐらいはあって、今みたいにきれいに舗装はされていないし、雨の日なんかはいったいどうしたんだろう?...たぶん雨具でも着て乗って行ったにちがいない。
私が昔のことを言うと、今の子供らは部活がどうの勉強がどうのと言っては帰りが遅く、どうせ晩に迎えに行くのなら朝も、ということになってしまうし....そしてなにより痴漢やら不良やら、おかしなのがいっぱいで心配と家内は言う。
ケイタイという便利?なもののおかげで「今、電車に乗るとこ、〇時〇分着くから」の一言でお父さん、お母さんはアッシー君になるという次第。
まてよ、そういえば私が高校のときは電話がなかった!んじゃなくてあったけれども、農協に交換器のあった”有線放送”という代物だったんだ。
今、有線放送というとケーブルを使って、TVや映画、スポーツ、音楽その他の情報などを各家庭に配信する時代の先端を行くものだけれども、当時の有線というのは農協に交換器があって職員が交換手になっていて、こちらで話したい相手の番号、もしくはどこそこの誰べーというとそこにつないでくれるわけである。
ということは交換手には会話の内容がつつぬけ?....プライバシーもなにもあったもんじゃないけど、まっ、実におおらかなもんでした。
そして定時になるとピンポンパンポンとかいって日々の営農情報や町内の慶弔ごとの案内が流れてきたりして。
このように30数年という時の流れは我々の生活や仕事を"超々"便利な世界に誘ったのだけれども、子供達も含めて"超"忙しい(騒がしい)渦のなかに巻き込んでもしまいました。
さらにその超々便利な世界にはとんでもない大きな落とし穴があるということも、今回の新潟中越地震では教えてくれましたね。
現代日本で通信手段が奪われたため何日間か被害の様子がわからなくて孤立状態だったなんて、本当に信じられないようなことが実際に起こりました。
被災地の様子が伝わってくるにつけ日々の避難生活の厳しさ、復興の道の遠さに胸が痛みます。
普通に農作業をしたり、食事をしたり、子供達が通学をしたりといった、日常のなんでもない生活のありがたさが心底からわかります。
普通の生活の基盤だった田や畑、家畜、その中でもとりわけきれいに作られ維持されていた”棚田”はいったいどうなるのでしょう。
お米で最先端を行く新潟の被災地の方々の頑張りに期待し、エールを送ります。
投稿者:taka-farm