コメッセージ307号 2021年12月号
♩ティコトコトントン♫...♩ティコトコトントン♫....ふとんの中でなんとなくぼーっとしていたら最大音量で設定のスマホの着信音がいきなり耳元で鳴りました。
何事かとあわてて画面を見ると従姉妹(いとこ)からで「今日の未明に父さんが亡くなったの.....今は病院から家に戻ってきている.....」という内容で思わず「え~っ!!」....。
コロナ禍中の入院でお見舞いもままならない中、1年以上も会えずにいたのですが3ヶ月ほど前に本人から電話があり、来年の作付けに関して必要な機械の更新の相談を受けていたことからこんなに急に亡くなる(奇しくも父と同じ87歳)とは思ってもいませんでした。
認知症の進行もあってこの話はなかったこととして終わっていたのですが、それにしてもまだ元気だと思っていただけに本当にビックリした次第です。
私にとって亡くなった叔父は父のすぐ下の弟で私が今から45年前、後継者として家業の稲作を始めた頃には耕作面積、収穫量と北広島でも一、二を争う有数の米農家になっていました。
昭和34年(1959)に結婚、分家したときは2町歩ほどから始まったと聞いていましたが、その時には10町歩以上に拡大していましたので、叔父夫婦の頑張りはいかほどであったか。
戦後のパイロット(国や道の荒地開拓)事業で造成した農地を取得し増やしていったわけですが、当時少しずつ普及し始めたトラクターなども度々埋まってしまうほどの軟弱な地盤の泥炭地でしたので、まともな田んぼとして米作りをするのにはかなり苦労したことと思われます。
昭和50年代中盤、遅ればせながら後を継いだ私も地元の基盤整備事業に合わせて農地を取得して叔父さんが1番、うちが2番手の田んぼを持つ農家として米作りに励んでいたのですが度重なる冷水害に見舞われ、借金が過重にあったうちの方が存続が危ぶまれるようになりました。
そのような時に町の支援制度にすがると同時に叔父さんからの助けがどれほどありがたかったか....もし叔父さんという農家が存在していなかったら今のうちは無かったかもしれません。
借金苦で機械、施設などへの投資なんてできるはずもなくぬかるんだ田を起こす4駆の大型トラクターを始め、稲刈りコンバインなどいろんな機械を借りては何とかやり過ごしていたのです。
後日談ではありますが叔父さんに言われたことで今も頭にあるのは....「浩ちゃん(私)の方が俺(叔父さん)よりもたくさんトラクターを使ってるかもしんねぇなぁ~」という話。
それほどまでに多大なお世話になったということでもあります、
そんな純農村時代もあった北広島は今、まさに日ハムのドーム球場を核としたボールパーク建設と来年から監督の新庄、GM稲葉の二枚看板、メジャーリーガー大谷翔平の活躍、北広島駅西口の再開発、豪華マンション建設、JR新駅ができるといった話題などで持ちきりです
ガチャポンから転じて”親ガチャ”という言葉がありますが、地域の維持に汲汲としている町村が多い中こうした明るい話題の元で営農し暮らせる”町ガチャ”には感謝しなければなりません。
が、これまでこうしたタナボタ(大規模開発)で農業が縮小してきたことも事実で、大波を逆手にといった気概を持つことが農業者やJAを始めとする関連団体には求められています。
叔父には後継者がいませんが彼岸より自分の血汗のしみ込んだ田畑の行く末を「浩一(私)、お前しっかり見ていてくれよ」と言ってくれているような気がします。 合掌
投稿者:taka-farm